哲学サラダ
突然、自分だけのために夜ご飯を作って良い理由と時間が生まれた。
今日はハットの日、ピザにしよう、ならばお互いすぐに帰宅しようと夫と朝話して別れ、ピザピザほっくりポテマヨと心の内で唱えながら早上がりして夫に連絡しようとLINEを開くとそこには、「今日は職場の人と飲み会になった」と書いてあった。
正午頃には送ってくれていたようである。
私が気がついていなかったのである。
ついでに、夫は飲み会が好きではない。
さらに言うと、私よりも夫のほうがピザを愛している。
やむを得ない事情があったことは明らかであり、悲しい気持ちで連絡してくれたであろう夫に慰めの言葉を掛けることも間に合わず、今頃飲み会に向かっているであろうその人に遅ればせながら返信し、幸運を祈り、私は、ウキウキとスーパーに向かった。
夫は偏食で、サラダなどは好まない。しかし私はサラダが好きであり、一人で暮らしていた頃は、ウキウキした気分の日には好きなものばかり入れたサラダを山盛りに作り、のんびり好きなだけ食べていたものだった。 二人でご飯を食べる日は、夫も食べられるものばかり作ることになるため、必然的にしばらく山盛りサラダを食べることはしていなかった。
今日はそれをしよう、それがいいと継続中のウキウキのままにレタス、アボカド、スモークサーモン、モッツァレラチーズを購入して帰宅した。
日頃類を見ない手際の良さ(自分比)でサラダを完成させた。
好きなものを食べる時、人は無心である。もしくは、どれだけ今食べているものが美味しいか、どのように食べ進めるのが美味しいか、素早く延々と考えている。少なくとも私はそうである。
「どのように」とはつまり、口の中で最高に美味しい調整をするにはどれをどういう順で食べるのが良いかということである。端的に語弊を恐れずに言うと、晩ごはんの場合は、主に塩味の調整になることが多い。
今日の組み合わせだと、レタス、アボカドは塩味のマイナス調整に使える駒であり、スモークサーモン、モッツァレラチーズは塩味である。ただしそれぞれ全て相性は抜群であり、ある程度調整ミスをしても問題なく美味しい。
量は、レタス:アボカド:スモークサーモン:モッツァレラチーズ=3:1:1:2である。
淡々と食べ進めるうち、毎度必ず混乱は訪れる。
一番多いレタスだけ残ってしまうと、塩味が足りなくなり、満足に食べ終えることができなくなるため、基本的には塩味とともにレタスを食べる形になる。塩味の調整のため、脇役として、やむを得ずレタスもともに食べるのである。
しかし、いずれ必ず、「塩味の調整のため」ではなく、「レタスが食べたいから」レタスを多めに口に運んでいるのではないかと自分を疑い始める。
疑いでもなんでもなく事実であると気がつき(レタスが美味しい!!と一定回数以上感動すると訪れる気づき)、さらに混乱するのだが、正解は恐らく、全ての具材が好きなので、塩味もレタスも等しく愛しており、レタスが脇役であるという当初の思い込みこそが誤っており、レタスにも塩味にも大変失礼なことであったと、全ての具材がナンバーワンでオンリーワンなのだと、食べ終わり冷静になるとわかる。
サラダを作って食べると何故か、前回の哲学を忘れ去り、毎度同じ混乱と理解を繰り返す。必ず幸福のままに食べきるのだという使命感に駆られ、塩味と塩味調整という何の意味もないつまらないルールに縛られ、最終的に結局幸福になり、どうでも良くなり解放される。
牛丼でも同様の症状が見られる。(具材と米)
目的と手段がいつの間にか入れ替わることは良くある。
手段すら目的と成り果て、ある目的を達成するために別の目的を手段として用いることができるのであれば、それはやっぱり一番幸せなので、そういう状態を常に目指すべきなのだと思う。なんかこういうことわざがあったと思う、しかもかなりポピュラーなものだと思う。浮かばないので残念だが無視する。
今日はいつものサラダ哲学迷宮からひとつだけ解を得た。ということにする。よくわからなくなってきたのでもうやめておこうと思う。(たくさん文字を打って疲れたなと思っています)
(仮)
夫(仮)と、やっと?明日、入籍する。
昨夏結婚することにした際、入籍日は交際記念日にしようと、二人で話し合って決めた。たまたま次に交際記念日が来るのが、そこから10ヶ月後のことだったのである。
その日から二人は、恋人から婚約者となり、さらに結婚式を経て夫(仮)と妻(仮)となった。ややこしいが仕方ない。
私は最近、あらゆる説明が面倒になり職場の人々や友人などに夫(仮)のことを話す際には、ほぼ(仮)を省いていたので、余計にややこしい。職場の近しい人々は我々はとうに入籍したものと皆思っていた。当然である。無用に人を欺いてしまった。
しかし、変わるのは法的な部分であり、二人の関係に何か変化があるわけではない。私と、人生をともに過ごそうと決めた人が同じ空間にいるだけである。
夫(仮)はほぼ、99.9%既に夫である。
明日からは、お互いに何かあれば一番に連絡が来るし、対外的に家族と見なされるし、二人で行くレストランの順番待ちボードに夫(仮)の名字を書く時にくすぐったい気持ちが生まれることはなくなる。(仮)ではなくなるのだ。
たった10ヶ月(仮)で過ごしただけで、むしろ明日からの本番の日々に真剣味を今のところ感じていない。不思議なことである。きっとまた、さらに10ヶ月経つ頃までには慣れて、その時こそ我々は夫婦なのかあと実感するのだろう。
入籍前夜だし思うところとかもあるかもな、書き始めたら出てくるかなと深く考えずしたためているうちに、とうに0時を過ぎ、明日になってしまった。
ひとつだけ、生まれてから今までの名字はちょっと、結構、わりと気に入っていたので、名残惜しい気もする。心残りは以上である。民法や政党が変化することに期待はしていないので諦めている。
自分も人並みかそれ以上に仕事をしてきたにもかかわらず、残業続きの妻(仮)のために美味しい肉じゃがを作って、待ち疲れて今は寝ている夫(仮)のいる布団に入ることにする。
おやすみなさい。(仮)
人と住むということ
そういえば、結婚した。正確にはまだ入籍していないが、人を一生愛することを神に誓い、神父様と家族親族、友人たちの前で結婚指輪を交換し、人前でキスしたりした。
夫となる人と私は出会ってまだ2年に満たない程度だが、出会ったその日も今も二人の間にある穏やかであたたかいものは変わらず、そしてきっと、これからも変わらない。そう思えた日に、結婚しようと伝えた。
結婚をすることで二人が何かを失ったかというと、恐らく、特に何も失っていない。失わずに人と住むことも可能なのだと知って、初めは驚いていた。今はこの精神的贅沢に慣れてしまった。
夫のことがどうにも大好きなのだ。
どうにか、何か卑怯な手を使ってでも、今後あと50年くらいは一緒にいたい。叶うならふかふかのベッドに横たわりしわしわになった夫を看取りたい。
ということで、目下の課題は二人の健康維持である。
早速4月の異動により自分自身の健康維持の難易度がうなぎもかくやという登り方をしているが、なんとか生きている。
なんとかではなく元気に生きられるよう、まずは仕事に慣れたいところ。
出来ることだけをこなして楽に生きるということはもう出来ないのだなと、大人になって悟ったことのひとつである。
思い返せばこれまでだって、そんな時期はなかったのではないか?
眠いのですぐに答えのない問いに興味が傾く!
今は忘れよう。
今日もありがとう、明日も明後日も、50年後も、健康でいよう。
つれづれ2024春
異動になった。ほぼ転職である。しかし、既に4箇所目(係内異動を含めると5箇所目)となる。もっと長居したいものだが、その意向を一切職場に伝えていない自分が悪いといえばその通りであり、なるようになった結果が今である。反省するように。
辛いばかりの4月を越えた今、この仕事は認めたくないけれど恐らくこれまでしてきたどの仕事よりも適性があるな、と気が付いてしまった。
しかし適性があるということと、それをすることによって関わりのある他者と自分の総幸福量が増えるか否かは今のところ全く相関していないのである。いつか好きになれたらいいな、今はまだ、あまりにも、いっぱいいっぱい……
仕事をしていてこんなに恒常的に感謝されることが、少なくともこれまではなく、仕事で受け取る感謝+旦那さんからの言葉や行動で自己の承認欲求の需要を軽々超えるだけの供給を得てしまい、さらに業務量過多、時間外勤務激増でインプットのタイミングが減り、(それを理由にするのは本当にどうかと思うが)アウトプットするモチベーションが生まれる理由がなくなっており危機感を覚えるなどしている。
自分のモチベーションは大量のインプット+情熱+渇望のようなもの、を練り上げたものだったのだろうか?それにしては、たまに、突然復活するので不思議である。
ふと思ったことだが、こうして文章を書くこともまた、モチベーションに支えられているのではないか?いや、今はどちらかと言うと、心のままに突き動かされ、違うな、旦那さんが寝てしまったので、誰にも言えないままはみ出した昼間の心の内を吐き出しているだけだな。
そうすると、結局、その他アウトプットも同じなのでは?
生まれてくる感情の種類や中身により、表出の仕方が文章だったりイラストだったりするというだけではないのかな。
知らんけどと言いたくなる内容である。
でも、久しぶりにこうして自分と対話をするのもやっぱり楽しいなと思えている。
結論は出したくなったら出そうかな。今日はもう、眠いから寝よう。
おやすみなさい。
豆苗
豆苗を飼い始めた。
先日スーパーで、初めて豆苗の存在を認識した。豆苗という植物、野菜の存在は一人暮らしを始めてから知るようになったものの、食べたことはなかったし、興味を持つこともなかった。見かけたことはきっとこれまでもあったのだろうけど、それを豆苗と認識したのは生まれて初めてだった。
ああ、これが豆苗…凪のお暇で見たやつ。
豆苗はすっくと豆から伸びており、根っこは白く美しく四角におさまっている。その姿ごと包まれたパッケージには、サラダ、炒め物、お鍋に、と書いてある。サラダ、炒め物、お鍋って、つまりどうにでもできるということか。あの万能選手筆頭のもやしだってサッとでも火を通さなければ食べられないというのに、豆苗は生でも食べられるという。そして、ビタミンE、βカロテンなどの栄養素も豊富に含まれるらしい。しかも、なんと、食べたあともお部屋で再度栽培できるらしい。
よく見ると、豆苗は人気者だらけの野菜コーナーの中でも大きめの山を築いていた。初めて認識したとは言え、たしかに、こんな素敵な存在を民衆が放っておくはずがないと思えるステータスである。こうなると、味が気になってくる。これで美味しかったらもう、買わない理由の方が見つからない。なんか癖がなさそう。普通に美味しそう。豆苗への好感度はとっくに上限を超えている。気が付いたらカゴに入っていて、そのままお会計に向かっていた。
その後、豆苗は冷蔵庫で5日過ごすことになる。いや、ビックリしたと思う。自分に一目惚れした人間に買われて、その日のうちに食べてもらえないどころかまさか5日も放置されるだなんて、人気者の豆苗にとっては前代未聞の仕打ちだったかもしれない。購入から5日経った日曜日、ついに人間は豆苗の存在を思い出した。申し訳ないことをした。まだ生きているだろうか… そら恐ろしい気持ちで祈るように豆苗の脈拍を確認したところ、生きているを超えてぱりっと元気なあの日の姿でそこにいた。パッケージには、鮮度を保つ特殊なフィルムが使用されていると記載されている。それにしても元気である。恐る恐る半分ほど根本から切って、しっかりめに水で洗浄し、念のため火を通して食べてみた。それがなんとも、まあ、美味しかったのである。
普段からあまり食べ物の新鮮さにこだわっていないため、収穫したての豆苗のフレッシュな味はあまりにも舌に眩しかった。うわあーーー、新鮮な野菜、美味しい〜〜〜……!!勢いづいて、残りの豆苗もカットして、今度は生で食べてみる。おお、さっきよりも味が深い。シャキシャキで楽しい。久方ぶりに、食べる幸せを思い出した。
そして今、豆苗は、水を張ったタッパーに浮かべられている。今日と明日も1週間後も特に変わらない、境界の曖昧な日々を送っていたけど、明日からは毎日豆苗が伸びる。明確に意味のある日々である。ありがとう豆苗、食べてから常温で放置してたら一気にしなっとしててちょっと気が気じゃないけど、今の私ならきっとちゃんと毎日水を替えるからこれから元気になってくれるといいんだけど。
しばらく豆苗と住む。
玉子が好物
カルディで、味付きのうずらのゆで卵(真空パックになっているもの)の徳入りを買った。私は玉子、鶏卵及びうずらの卵が大好物である。文字にすると、食用とは言え他の生物の卵、生命をいただいているという事実を改めて強く意識するけれど、既にお店に並んでいるものならせめて美味しくいただくのが供養というもの。
話を戻す。特に目玉焼き、茹で卵を好んでいる。玉子はスーパーでもコンビニでも安く手に入り、その割に栄養価はとても高く、しかも美味しいのである。一人暮らしを始める際、家で唯一の一人暮らし経験者だった父も玉子を1日ひとつ食べていれば死なないよ、と言っていた。父の3つのアドバイスのうちのひとつである(真偽のほどは保証されていない)。もう2つは金がないならもやしを買うといい、…あとひとつは忘れてしまった。
閑話休題(多い)。学生時代、長期バイトが決まらず、一つ前の短期バイトの給料が尽きてしまい、仕送りが入るまでの1週間ほどを1000円で乗り切らなければならなくなったことがあった。あと1日で乗り切れる、というある日、なんと玉子が切れてしまった。そして財布にはもう、100円も残っていなかったのである。ああ、これまでの自分の行動を思い出して後悔する。あの時に乗ったバス代が、ちょっと飲みたかっただけのジュース代が、今ここにあれば、玉子が、命をつなぐものが買えたのに……。結果的に私は死ななかった。幸い米はあったし、パスタもあった。
あれから8年経った今ではまともな仕事に恵まれて、もう衣食住に困ることはない。それでも、あの日のことを何度でも思い出してしまうのだ。仕事で嫌なことがあっても、あれほどの絶望を覚えることはついぞない。そして今日も、うずらのゆで卵を手に取りながら、食べながら、思う。
それはつまり間違いなく、結局この今が幸せであると、そういうことなのだ。と。
暑くて暑くて
眠れない!
布団をかぶったところで眠気は来ない。むしろさらに暑くて、眠気が去る。もう布団の上にいるだけで暑い。布団が熱い。
眠れないといつまでもいつまでも、考えてもどうしようもない、生産的でも何でもない、しょうもないことばかり延々と考えてしまう。
ただ、幸いにも現在の私はわりかし幸福であり、悩み事も一つ程度しかなく、それも解決に向かっており、つまり何が言いたいかというと眠れないせいで大好きな人たちのことばかり考えてしまっていろいろな人への感謝が止まらないし幸運に恵まれたことを噛みしめてしまうし部屋で一人でにやにやしてるしで全然落ち着かないです。たぶん眠れない理由は暑さよりこれです。でも暑いから眠気が来ないから考え続けてるんだよなあ、考えてるから眠れないよなあ、暑いなあ、、エンドレスループって怖くね?
いつまでもにやにやしているのも馬鹿みたいなので(※俯瞰的視点からの意見です)寝る努力をする努力をする。ねむろう。明日はあの子と出かけるよー(よし寝よう)